猿飛佐助の一生は、それはそれは恵まれたものだったと思う。
幼少には偉大な師の元で忍術を学び、同郷の美しき友と親睦を深め互いを競い合った。
そうしてこの世でただ一人の忠節を捧げる主を得、己を認めてくれる将ともであった。
世は戦乱のときであったが、猿飛佐助は満たされていた。
数多の出会いと別れ。戦いと和平。
天下はすぐそこだった。
悔しいといえば悔しいが、それでも猿飛佐助は、今世に悔いはないと思う。

、ちゃん」

ひとつ、言葉を落とせば同時に前身が軋んだ。
随分前から壊れかけていた躯も、もうそろそろ駄目なようだ。
佐助は苦笑に身を震わせる。その度に走る痛みは佐助の生を知らせるものだった。

ぐらつく体を支えながら、なんとか木に寄りかかり体勢を立て直す。
浅く速い呼吸を繰り返しながら、佐助は幸村の無事を願った。

「旦那、頼むから死んでくれるなよっ・・・」

負け戦とはわかっていた。それでも戦わねばならぬ。そう口にした主はもう幼いとは呼べぬ立派な将であった。その幸村に、そうだね、と返したのは佐助自身であったし、その言葉を覆そうと思ったことはない。

「死に、急ぐなよ」

それは幸村への言葉だったのか。それとも、自分自身への言葉だったのか。
判断のつかない言葉の方向性。佐助は一度深く深呼吸をして、全身の筋肉を使って高く跳躍した。
敵の軍勢はいまだ衰えを知らない。
投入される増援の前に六文銭の旗が揺らぐ。赤い戦旗がいくつも倒され、大地に打ち付けられ埋もれていく。
佐助は瞬きもせず、木々の合間からそれを見る。
忍として感情を殺すことは長けていた。それでもやはり、悲しいと思わずにはいられない。
誇り高い六文銭。主の姿を思い描き、佐助は最後の印を結んだ。

「武田が将の一人!!真田源次郎幸村ここに在り!!」

夕暮れ色の髪は日に焼けた茶色に染まり、緑を基礎とした忍装束は赤く変わった。両手の巨大手裏剣は見る間に槍へと転じ、額宛はたなびく赤の鉢巻にへと姿を変える。

「幸村が槍、まだ折れはせん!!」
「真田だ!!」
「紅蓮の鬼だ!!討て!討てぇ!!」
「全員突撃ぃ!!」

迫りくる軍勢に幸村の姿を借りた佐助は二槍を振るう。
手負いとはいえ佐助も婆娑羅者。一騎当千の力を有しているからには雑兵には負けられない。

「でもま、ちょっと数が多いかもね」

飄々と軽口を叩きながら円を描くように槍を振るえば、滲み出る闇が敵を屠る。
突き、振るい、薙ぎ、自分以外のすべてを沈黙させる為に、佐助はただただ二槍を操った。
悲鳴と絶鳴を遠くに感じながら、佐助は小隊を潰して突き進む。君主が無事逃げおおせたかは定かではない。真田の為に生き抜けとは言ったものの、武田の為に死ぬ男だ。もしかしたら、大将首のところに駆けているのかもしれない。
それならやはりそれで、佐助もまた敵を屠るのみだった。

「真田幸村、我 ここにあり!」

それでもああ、死ぬなよ、死んでくれるなよと祈ることしかできない。
今から幸村に追いつくことは不可能だ。混戦の極みと化した戦場で、いくら佐助といえども幸村を見るけることは叶わないだろう。第一今立っていることさえ奇跡に近いのに、と佐助はひとつ自嘲を零し、それでも結局諦め切れずに戦場を駆けた。
立ち止まってしまえば、一度命が尽きてしまうような切迫観念。佐助は本物の真田幸村のように、命を燃やす怒号と共に槍を振るった。
そうして喉を震わせば、骨肉共にこのまま燃え尽きる錯覚に佐助は抱かれる。脳裏で熱が弾け、走っているのか、戦っているのか、吼えているのか、叫んでいるのかも判らなくなってしまうのに、ただ突き進むという使命感にも似た行動原理だけが残されていた。

「あ、れ?」

それなのに何故だろう。
佐助は走ってはいなかった。戦ってもいなければ吼えてもいない。唇から漏れた音は震え、何事かと己を認識し直せば、何時の間にやら変化の術が解けていた。
赤かったはずの篭手はいつもの漆黒のそれに変わり、紅を基にした戦装束はいつもの忍装束でしかない。

「おっかしぃなぁ」

はは、と笑えば口元がぬるつく。泥かと拭えば黒鋼の篭手がてらてらと光っていた。
血だ。
鼻も利かなくなっていたのかとぼんやり思えば、どこもかしこも痛みが消えている。
それに視界がおかしい。
世界が垂直にある。湿った大地と曇天の空が縦に割れ、佐助の視界を二分割している。

「あれれ〜?」

砕けた調子で言ってみれば、視界の向こうに鈍い金の光を見た。

「げ、戦国最強じゃん」

三つ葉葵の旗印を棚引かせ、戦場に現われたる本田忠勝を見やって佐助はようやく自分の立場を理解した。
それこそまさに、幸村のように愚直に突き進み、そうして上空から襲来した本田忠勝の一撃に吹き飛ばされたのだ。術も解け横たわったままの躯はすでに限界を超えていて、もう動かないだけだ。だから痛みがない。だから動けない。血は止まらないし震えも止まらない。
たまらなく寒い。佐助は動かない躯で柔らかな布団を思い浮かべる。
忍として、畳の上で往生できるとは思っていなかったし期待もしていなかったが、やはりああ最後くらい安息があってもいいんじゃないかと一人口元を歪めた。
暖かい布団。不意に佐助はいつも夜更かしするに寝物語を呼んでやった日々を少し思い出した。
ある日突然、遠くからやってきたと言った。奇妙な着物を着て、朗らかに笑う少女。日がまたぐ頃に眠り、昼に差し掛かる前に起き出す。それを正すために、佐助は早く寝かしつけようと苦心していたことが思い出された。
心根から溢れた甘やかな情景に、佐助は緩やかに視界を滲ます。
よく笑う少女だったし、その笑顔に救われていた。
血の気を感じさせない稀有で無垢な存在。触れれば汚してしまいそうな恐怖感もあった。
彼女は遠い未来から来たと言った。戦のない世から来たと言った。
それを確かめる術を、佐助たちは持っていなかったが、それを認めさせてしまうほどに彼女は優しく、穏やかで、暖かかった。

、ちゃん」

なんですか?佐助さん。
そう答える声が耳の奥で木霊する。
彼女は佐助の団子が好きだった。幸村と取り合いになるのはしょっちゅうで、仕事の合間に作って欲しいとよく強請られたものである。
着物を着ただけでうれしそうにはしゃぎ、簪を送った日には飛び上がって喜んでいた。乗馬の練習に興奮し、誰もを分け隔てなく接し、城下の子供たちからも慕われていた。
白く細い腕。頼りない小さな背。優しい言葉尻。こちらを見上げる丸い瞳。
まだ覚えている。まだ、どれも零してはいない。
脳裏を駆ける思考に、これが走馬灯というやつなのだろうと佐助はどこか冷めた思考で理解した。
師と、かすがと、幸村と、信玄と。ほかにも多くの武将や部下の顔が浮かんでは消えていく。
それでも。
それでもやはり、最後に残るのはの笑顔だった。
佐助さん、とあどけない声音で佐助の名を呼ぶのやわらかい笑みだった。
未来から来たといった少女。未来に帰ってしまった少女。
彼女と過ごした、たった一年という短い時間。
柔らかな肌と、滑るような黒髪と、暖かな声。
あの姿も、音も、感触も。みんな覚えてる。何一つとして失いたくなくて、佐助は記憶の中のを抱きしめた。
佐助の生涯で、最も輝きを放ち、もっとも愛すべき記憶。それが、だった。

死にたくはない。
上洛を目前に亡くなった信玄。仇討ちに立ち上がった幸村。手のかかる戦馬鹿である主を置いては逝けない。
動かない体を叱咤し、何とか気力を振り絞って佐助は立ち上がった。
暑苦しいのは得意じゃない。それでも佐助だって武田軍の一員だ。
滾る魂とやらか、「奮えよ!佐助っ!!」と聞こえた主の幻聴に苦笑を漏らしつつ、佐助は失った手裏剣の代わりに苦無を構えた。

「真田忍者隊、猿飛佐助、いざ参る」


重槍を構えた忠勝へと、佐助が最後の一撃を放つ。
どうして体が動くのか、不思議なくらいだった。痛みも感覚もどこにもない。ただ意識だけがそこにあって、もっと別の誰かだ佐助の体を動かしているような感覚だった。
勝てる見込みは万に一つもないのに、それでも佐助は駆けていた。ただそれが、佐助の忠義であり、恩義であり、最後の仕事だったからだろう。
佐助は残された最後の苦無を握り締め、魂を焦がす咆哮を放ち、忠勝へと仕掛けた。














ちゃん。
会いに行くよ。君に会いに行く。きっとまた巡り会ってみせる。
五百年の時くらい、俺様の手にかかればどうってことないからさ。
だから、絶対君に会いに行くよ。
そしたらさ、どうかまた、佐助さんって俺様の名前、呼んでくれないかな?