何時だって二人は真正面から見詰めあった。
男は女程度に背後を見せることはなかったし、女自身男の背後を取ろうとは思って居なかったからだ。

刻は常に宵で、は夜に紛れて佐助の名を呼ぶのが常だった。
佐助はいつも困った様に笑って「また来たの?お莫迦さんだねぇ」と肩を揺らすのみ。

夕陽が溶けたような橙の御髪。
己が一生触れられる事はないだろうと思えば、すぐさま捻切れる程に痛む心臓を無視しては緩やかに声を発した。

「佐助さん、佐助さん。今晩は」
「おやおやちゃん、また来たの?お莫迦さんだねぇ」

相も変わらぬ決め台詞に安堵の息を落としつつ、は音もなく上田城の瓦の上に降り立つ。

佐助は変わらず正面からに相対し、聞き分けのない幼児を見るように苦笑した。
夜に溶けない橙の髪が、月に照らされ薄く光る。
対する自分は飾り気のない漆黒。
忍装束も夜色で、曲がりなりにも女なのに、らしさは微塵もない。
すこし悲しくなったがいつもの事だ。
時に釣り合わぬ程の満面の笑顔を見せれば、佐助は不思議そうに眉を潜めた。
自分も彼も、演じているとは言えなかなかに表情豊かである。

「今日は随分ご機嫌さんだねぇ、俺様に引き抜かれる気になった?」
「いえいえ、そんな、まさか」

言えば残念と肩を竦められた。
本心かは判らない。
ただ今でなければはきっと手放しで喜んだだろう。

「じゃあ今日はなにしに来たの?」
「同じです。いつもと同じです。佐助さんと話たくて」

こちらのこれは本心だった。
は火照る頬を隠したかったが、雪の様な白い肌だ。
目立ってしまうのは致し方ない。
佐助はすぐにその血色を見つけては、楽しそうに目を細める。

「随分と積極的だね」
「最期、だから」

ぴたり、と佐助の軽口が閉口する。

「ここに来られるのは、最後だから、もう会えないから」

足元に視線を泳がせてから、ゆっくりと佐助の瞳と視線を絡めた。

「バレちゃったの?独眼竜に」
「はい、でも政宗様は何も」

は黒脛巾だった。
奥州の忍だ。
女だてらに忍頭として部隊も任される身であった。

「政宗様はお優しいから、私に何も言いませんでした。でも、だから、もう会えない」
「そ」

佐助の反応は平坦だった。
当たり前だ。
話掛けるのも、会いに来るのも、恋慕うのもが勝手にしたまでた。
佐助は真田忍者隊長。
くのいち風情に心をやる謂われもないから。

「私は忍として、政宗様を裏切れない。でも、女として、佐助さんへの思いも断ち切れない」

うつ向き、視界から佐助を隠す。
今あの瞳を見てしまえば、きっとのなけなしの決意は崩壊してしまう。
だからは、うつ向いたまま言葉を続けた。

「忍には戻れない。女にだって成れない。だから、だから…」
「…だから?」

先を促す佐助の声に感情の色はない。
嗚呼疎まれていると思うと勝手に目尻に涙が浮かんだ。
まったくもって、忍失格だ。

「政宗様の所には戻れません。佐助さんの所にも行けません。」

一つ深く息を吸う。
きりりと痛む心臓を宥め、はゆっくり顔を上げた。

「殺してください。甲斐に忍び込んだ忍として、あなたの手で消して下さい」

長い長い間があって、はぁ、と大きい佐助のため息が上がる。
そこからは苛立ちは感じとれなかった。
ただやはり、手のかかる幼子に対するような呆れたような困ったような声音だった。

「本当にお莫迦さんだねぇ、ちゃんは」

そう改まって言われてしまえば返す言葉もない。

「俺様がちゃんのこと殺さなかったらどうするの?拷問にかけたり新薬の実験体にするとか思わなかった?」
「あ、」
「おばかさん」

存外に柔らかい声音が振り降りた。
佐助は瞬きの一瞬にも満たない合間にに詰めより、の映えのない黒髪を殊更優しく撫でる。
本当に、この人は優秀な忍だとぼんやり思えば、冷たい黒鋼の小手がの頬を捉えた。

「本当におばかさん」

至近距離で見上げた佐助の顔は、思いの外穏やかで、優しい。
あっと言う間もなく唇を重ねられれば、驚きに心臓が暴れ回る。
そうして広がる口内の苦味に全てを察した。

「佐助さん」
「即効性だよ」

変わらない柔らかな笑みは仮面なのか本心なのか。
量り兼ねるはすぐに思考を放棄する。
ぐにゃりと歪み霞む視界。
佐助の優秀さを改めて思い知った。

ちゃんは本当におばかさんだねぇ。敵なんかに心を奪われて」
「だ、って・・・」
「俺様なんかを好きにならなければ、もっと長生きできたのに」

呆れた風に言われてしまえば、乾いた笑いを返すしかない。
渇く肉でからから笑えば、佐助はを慈しむ様に薄く瞼を下ろした。

ちゃんが忍でさえなかったら、俺様のややこを産んで欲しかった位好きだったのに」

雨に似た速度で降って来た言葉に、は目を見開く。
子犬のように丸く大きい愛らしい眼に涙を貯めて、はゆっくりと破顔した。

「佐助さん、佐助さん。例え嘘でも嬉しいです。その言葉があれば、死後の黄泉路も怖くありません」

瞳を細めて微笑めば、垂れた目尻から涙が零れる。
なんとも安上がりな幸だ。
たったそれだけの言葉で、肉の内に広がる毒さえも甘い密に変わる気がしたのだから。

「お慕い、して、いま、す」

星夜の光を吸い込んで強く煌めいたそれは、の血の気のない頬を撫でて忍装束に滲んで消えた。
ふらり、と覚束無い足が力を失い均衡を無くす。
腕を伸ばせばすっぽりと収まる細い体。
忍でも女でもないは、ただの小さな少女でしかなかった。

「ねぇちゃん。・・・、」

そっと口元に手を当て、そして首筋に触れる。
命の鼓動はひたすらに弱々しく、拙い。
まだ熱のある肉がいずれ冷たくなるだろうと思うと、言い表し難い想いがあった。

されど突き詰めれば所詮男と女の前に忍と忍。
胸の内の感情に爪を突き立てながら、佐助は鬱蒼と微笑んだ。


、俺様の可哀想なおばかさん。死んだら優しく愛でてあげるよ」

微かな吐息が途切れる前に、佐助は触れるだけの口付けを落とす。

音もなく、さようなら






甘い毒